ネタばれ含むのでスルー推奨
ここのところのハリウッドのエンタメに政治的テーマを絡めるというトレンドの中で、MCUに押され気味だったDCがDC(というかバットマンシリーズの持つダークネス)ならではの持ち味で、見事に仕上げた作品。大傑作と言っていいと思う。
ヴィランとしてのジョーカーはこれまでにもなんども描かれてきた。ジャック・ニコルソンのはまり役といってもいいし、ヒース・レジャーに至っては主役の存在を食うほどの究極のヴィラン像を確立したといっていいといえる。
配役にホアキンと聞いたとき、まあ性格俳優とはいえるが、先人のイメージを超えるものになるとは思えなかったし、ヴィランである以上、共感という方向で成立させるわけにはいかないわけで、どう料理するのかというところに非常に興味があった。それが今回、先の二人とは全く別の領域で見事に確立されたキャラクターを作り上げ、政治的なテーマときっちり結び付けられていたことは素直に驚いた。
このジョーカーはまさにホアキンにしか演じることはできなかったといえるだろう。彼の出演作の中ではグラディエイターの皇帝役が最高にホアキンの持ち味を出したはまり役と思っていた。シャマランには悪いが、ホアキンはあの気色悪さ、情けなさこそが彼の良さであり、あれを超えるものはなかったのではないかと思っていた。まあそんなに隅から隅まで見たわけでもないけど、今回の抜擢の背景にはあの卑怯で情けない皇帝の姿があったのではないかという気がする。
70年代の米国産映画はハリウッドの娯楽に徹した作品と、ニューシネマのような社会性をテーマにした映画にはっきり棲み分けられていた。それがゼロ年代ごろのスパイダーマンあたりから、エンタメに政治的なメッセージを込めることにより、子供から大人までを取り込むことに成功したのだが、この作品はもろにニューシネマ寄りに振り切ってしかもエンタメとして成立させるという、難しいことをやっている。ニューシネマからの影響(オマージュ)としてはデニーロの起用(とアーサーの上半身裸)や母の殺害シーン(カッコーの巣の上でのジャック・ニコルソン)などにも見うけられる。
まあそれだけに普通の映画と思って見にきた客の中にはエンディングで呆然とした者もいたかもしれないが。
映画のテーマは格差拡大、弱者切り捨てという、ここのところの世界のトレンドに対する問いかけのメッセージが込められている。
公共の福祉とは社会の安定化に対するコストも含めて考えるべきものである。
リバタリアンやネオリベがいくらこの世は自業自得、自己責任、努力のできない気持ち悪いやつは死ね!自分は頑張っているのに弱者は甘えるな!といったところで、弱者切り捨てによってもたらされた社会の荒廃はいやおうなしに自分は正しい生き方をしていると言い張るものも巻き込んでいく。もちろん行政の無策の影響による暴動の巻き添えを食ったウェイン夫妻が悪いわけではないし、暴行を肯定するわけではないのだが。
税金を弱者に振り分ける意味とは、結果的に社会の安定化をもたらし、市民や富裕層の生活を守ることにも通じるということでもある。
アーサー自体に共感できるかといえば、彼の持つ異常性や気持ち悪さゆえに難しいのだが、物語全体の構図としてとらえると、権力者が弱者を切り捨てているという現状に自分を重ね合わせて、彼の犯す犯罪にいくばくかの共感を感じてしまう部分もある。
彼が殺人を犯した後の踊りのシーンはそこに重ねられた重厚なチェロの音と相まって、ゾクゾクする美しさがある。
社会の中で気持ち悪がられ、虐げられてきた存在だった彼は、偶発的に犯してしまった殺人をきっかけとして、自身のステージが上がっていくのである。
音楽に興味のない人にはわからない話なのだが、英国ロックファンの自分にとって、この気持ち悪がられる立場からの一発逆転構造というと、モリッシーという存在をつい思い浮かべてしまう。彼も母子家庭でいい年をして自宅から出ず、ジョニー・マーと出会わなかったらあのまま世を呪う引きこもりとして埋れていたかもしれない。
まあ日本のファンはこの気持ち悪さはピンとこない人もいるかもしれないが、デビュー当時、自意識過剰のキモい男に関する歌詞を変な声で歌い、くねくね踊るモリッシーは英国では十分気持ち悪がられていたと思う。ファンもみんな非モテの若い男ばかりだったし。
毒に満ちた鋭い感性によって練り上げられた世の中に呪いをかけるような皮肉に満ちた歌詞を書くモリッシーは、美しいメロディを書くマーとの出会いによって結成されたスミスのフロントマンとしての存在感(キモいが美しい)につながることによって成功を収めるのである。
モリッシーには隠れた詩の才能があったが、アーサーの場合の才能は殺人。
アーチストと殺人者は裏表の存在といったのはかつてのコリン・ウィルソンだったが、そのきっかけは些細な偶然によってもたらされる。アーサーの場合は同僚から押し付けられた拳銃だったということ。あれがなければただの気持ち悪い男として終わったのかもしれない。
この偶発性は誰の身にも起こりうることだとするなら、これを観ている自分がジョーカーにはならずとも、彼を崇める暴徒の側に立つ可能性だってあるわけである。
ジョーカーの存在はこんなクソのような世の中など滅んでしまえ!という人々の呪いの心を掻き立てる。
ただし、この映画がかつてのノワールの時代から明らかにアップデイトされているのが、暴力性に対する本能的な共感を断ち切る構造。
階段で踊るシーンは一歩間違えれば大怪我になるところをすんでにかわす危うく美しいスタイリッシュなもので、ホアキンの持つ気持ち悪さが美に転じて一瞬かっこいいと思うのだが、直後に刑事に追いかけられて無様に逃げ惑う。自分を馬鹿にするために呼んだ司会者を撃ち殺し、カメラに向かって何かを言おうとしたシーンでいきなり放映は断ち切られる。
人々が抱く、ジョーカーに重ね合わせたこの世界に対する呪いの感情は、物語の中で若干コメディタッチに振った次のシークエンスによって断ち切られ、憧れに昇華しないように構成されている。
そしてラスト、彼を崇める暴徒を前に意識を取り戻し、何を求められているかを知り、車の上で踊るシーン。ここは最高の晴れ舞台であるはずが、直後に病室のシーンに切り替わる。
ここは見るものにいかような解釈も成立させ得る構造になっている。このシーンは、すべてが彼の妄想だったという解釈も成り立つが、一方でその前の暴動シーンの後に逮捕され、医療刑務所においてカウンセラーとやりとりをしているとも解釈できる。いずれにせよ暴徒のその後は描かれることはない。
そして、ここは明確にされてはいないものの、最後に血まみれのスリッパで廊下を歩き、追いかけられることで、ここがジョーカーの出発点だったという解釈も成り立つ。あるいは彼はジョーカーとは無関係な妄想癖の患者という考えも成り立つ。
受けたら続編、という流れもあるので、続編が作られたならばこのシーンの解釈は明らかになるのかもしれないが、ここはこれで終わることで観るものに委ねられた余韻を形成している。
ジョーカーというネタを元にここまで深い物語に組み上げるとはお見事!というしかない。
しかし、頻繁に出てくるアーサーがタバコを吸うシーン。喫煙者にとっては結構辛い。
昔は公共施設ではどこでも吸えたんだぜ。禁煙なんて概念なかったんだから。といっても今の若者は信じないだろうなあ。
新しい概念に上書きされることによって、感覚的記憶は書き換えられるのですのよ。
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- 2019/10/18(金) 20:36:09|
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前後編だったわけだが、個人的にはインフィニティウォーに衝撃を受けた。
ネタバレ含むので長い前置きから入る。未見の人はそっ閉じ。
アベンジャーズに通底するテーマは「正義(力)とは何か?」
そもそもアベンジャーズというチーム名は悪に対する「報復」という意味であり、日本語の語感のせいもあるかもしれないが、米国60年代までの価値観のような気もして、違和感がある。キャプテンの武器が盾であることとの兼ね合いで専守防衛というならSHIERDのなになにみたいな名称の方がよりふさわしいように思えるが、長年親しんできた名称を今更変えるわけにもいかないということだろうか。
ただ、今でも米国発のスポーツ文化において、例えばホームランのあとに相手投手を侮辱するような行為をした場合、次の打席で死球でやり返すことをよしとする価値観は残っているわけで、彼らのやられたらやられた分はきっちりお返しして良いとするフェアの感覚には英国発のサッカーのような故意は悪だが激しいプレーの結果のファウルはよし(仕方なし)とするフェアプレー精神とは異質な文化的な意味が残っているのかもしれない。
米国におけるジャスティス(正義)は単純に普遍的な一つの思想とは言いがたく、ゆえにアベンジャーズシリーズでも様々な正義が提示されてきた。その象徴としてリベラル(民主党)よりのアイアンマン、リバタリアン(共和党)よりのキャプテンアメリカが立てられ、これはまた米国ドラマ伝統のバディもの的な対立軸にもなっていた。ただ、マーベルに関して共通するのは「ヒーローは困っている人がいるなら各自の能力を使って全力で助ける」ということがジャスティスの基本で、助け方の違いとも言える。
前置き終了。
ここまではまあいいとして、最も驚いたのはインフィニティーウォーにおいて提示されたサノスの正義という視点。
彼の目的は現代社会における人口問題に対する功利主義的解決法とも読み取れる。サノスは世界の半分を消すことにより、この世界に調和をもたらすことができるということを知っており、それを目的とする。
サノスは絶対悪ではなく、目的の達成に対して取る手段においては徹底的に冷徹であるが、目的達成のためであっても嘘はつかない、身びいきで誰かを選択するという形の差別はしないという信念を持つものとして描かれている。そして彼のいう通りに世界に秩序が生まれる。これはある意味、人類の過ちを正すためにその大半を滅ぼしたという(ユダヤ)神話における神の視点を持つ存在ともいえる。もはやヴィラン(絶対悪)じゃねえじゃん。
米国のエンタメ界においてこのような「一理」を敵の側に持たせるという時代になったのか!そしてそれは(ユダヤ)神の否定じゃん!という点が最も驚いたところである。
善悪二元論の価値観を持つキリスト(ユダヤ)教世界において、倒されるべき側は絶対悪であることを要請される。それゆえに社会派ドラマは別として、子供も見るエンタメ系の映画において、今まで悪の側に一理を持たせるということはほとんどなかったように思う。
ましてやサノスは根っからの悪人ではなく、ガモーラを愛していた。そのガモーラを大義のために捧げた時点で、その愛は自ら否定せざるを得ないことにはなるのだが。小さなガモーラに世界の均衡がもたらす平和な世界について語るサノス。ガモーラを失ったことを悲しむサノス。彼を絶対悪と言うことはできない。
そして彼は最後までフェアネスを貫き通して、事後は一人農場で死を待っている。インフィニティストーンの力を持ってすればなんでもできる(アベンジャーズに殺されることも防ぐことができる)ということを知りながら、自らも含めてそれを悪用してしまう可能性を潰すためにそれを破壊してまで。
ここが指輪物語の悪と決定的に異なる部分。
サノスが世界の半分を消した後、小悪党以外の悪は存在しなくなっている。ヒーローを必要としない平和な世界が訪れているのだ。そこにある悲しみは、かつていた人たちが失われてしまったという記憶であり、その記憶を持つ人たちがいなくなれば、いずれ誰も悲しまない理想郷が実現する。
このような敵の描き方がかつてあっただろうか。
マトリックス3において、当時の米国のイラク侵攻批判という政治的意味性を反映させた「敵の側にも生活があり、その敵と思っていた存在によって世界に調和がもたらされていた」という形での提示はあったものの、人間側の不幸は解消されておらず、若干消化不良な形の結末で、映画としての完成度として見た場合には成功しているとは言い難かった。
日本の漫画やアニメにおいては敵にも理があるという物語は普通にありふれてはいて、そうした日本の表現を研究した成果とも言えるのかもしれない。だがそれをキリスト教的世界観を持つ人々に対してここまであからさまに表現して、納得のいく形(この結末が完全な正義の達成であるとは言えないということも含めて)で完成させたということ。これはMCUが一貫して追い求めていた「正義とは何か」というテーマにおいて一段深い世界観に突入したということを意味する。正義の中からも過ちによって悪が生まれる(主にアイアンマンの科学至上主義と進歩主義によって)という視点は初期から提示されてはいたものの、悪に見えるものでも実は完全な悪ではないという視点の提示をここまで突き詰めるとは。今回の前後編には心底驚いた。
それに対してアベンジャーズの側の「正義」とはなんだったのだろう。
彼らはサノスのしたことの意味は知っている。この世界を肯定し、ハルクのようにヒーロであることをやめてこのまま一歩前に進もうというものもいれば、納得はいかないがどうにもできずに飲んだくれるソーのようなものもいる。脇道だけど、ソーの姿って、騎士だった貴族が戦いから離れた後のジョンブルみたいだよね。死に場を失った彼らの誇りを保つためには、飲んだくれて死ぬのを美学とした、みたいな。サノス級の存在なはずなのにコメディリリーフみたいになっちゃったけどw
そんな中でアントマンのアイデアを得て彼らの出した結論は、今回生き残ったものがこのまま何もしなければこの世界に波風は立たないと知った上で、自らが今後辛い目にあうとしても、消えていった人たちを「消えてよかった」とはしない思想。トータルインクルージョンの価値観に基づいた世界を目指す道を選択する。
全体の話としては単純に見ると軍国主義に個々のヒーローが団結して対抗するという筋立てなのだが、理念(政治)的側面から見た場合、現代のグローバリズム、ネオコン、ネオリベ等のよりベターな結果を得るためには切り捨てることもやむなしという功利主義(国家主義、全体主義)的思想と、素朴なリベラリズム=自由主義(個人主義、民主主義)の目指す最大多数の最大幸福の戦いとも言える。
それはまた、思想的には合理主義と理想主義の戦いとも言えるし、神学的には神の摂理に対する人の情理(不完全な存在の人間のなす過ち=不条理の内包)のようにもみえる。
人の世の理想はどこまでいっても理想である。見果てぬ夢と知って、多くの痛みを伴う敗北を生じつつ、前に進む決意。彼らは平和的な保守ではなく勇気を持った改革の道を選択したとも言える。
そしてそれはコスモス(調和)に対する報復(アベンジ)とも言えるだろう。
とすれば、彼らの行為も絶対正義とは言い切れないのではある。神の視点から見れば、間引くことによって実現された調和のとれたこの状態を元に戻すという行為は再びヒーローを必要とする争いの世界に戻すという愚行でしかない。だがそうして人類は発展してきたのであり、彼らは誰一人として切り捨てられていい人はいないという理想に基づいた、愛する人たちを可能な限り救うという、これまでと同じ道を選択をする。
彼らの理想とする正義は「ひどい目にあっている人がいたら、それがどんな人であっても救う」ということ(人道主義)であるが故。
そこはリベラル(アイアンマン)でもリバタリアン(キャプテン)でも同一の価値観であり、価値相対主義に陥らず、ぶれることはない。自己責任論者や排外主義者はおとといきやがれなのである。
でもさ、この図式って神に対する反逆じゃん。冒頭でも書いたけど、サノスのやったことって、ノアの洪水やソドムとゴモラに代表されるエホバの考え方(上手くいかないとリセットする)じゃん。それに歯向かう物語って、、、こんなことキリスト教世界で表現しちゃっていいの?
わしはペイガン(原始仏教徒)だから一神教における善悪二元論や慈悲深いという設定のはずなのにひどいこと平気でやる純粋善なんて意味わからんわ!誰が認めるかよ!エホバキルでござる、いいぞもっとやれ!なんだけどさ。
まあそこに気づくことなく楽しめる作りになってるけど、気づいたら憤慨する人いるよね。
エンドゲームの筋立てにはツッコミどころはいっぱいある。
まず一つ目のツッコミどころは適材適所で計画を立てていない点。
キャプテン・マーベルという超越的能力を持ち、どの時間軸にも影響を与えにくいチートキャラがいるにも関わらず彼女を使わず、あえて同時間軸に同一人物が存在するリスクを犯している。このタイミングでこれがあるというということを知っているというのは確かに有利ではあるが、それでもやらかしてるし、科学力使って情報仕込んでいけばいい気もする。
こうした無茶振りは逆に物語性における適材適所になっている。
トニーが(そうと知らずに結果的に戦争ビジネスという悪で財をなしていた)父を励ますシーン。現代の我々が過去からのドラスティックな価値観の変化をどう受容すべきか、どうしたら(死んだ)相手を傷つけずに自分の心に決着をつけられるかという話でもあり、非常によく練られている。
ホークアイとブラックウィドウに関しては、なぜそこにその二人?ご都合主義にもほどがあるが泣けすぎるじゃないか!
またネビュラが混信するがゆえに危機を生じるエピソード。これがあったので話が盛り上がるわけだけど、その危険性は最初から気づいててもよくね?的な。
それに何より、過去エピソードをまた見たくなりすぎるじゃないか。構成うますぎる。
最大のツッコミどころはインフィニティ・ウォーの戦いと、エンドゲームの戦いとの時間軸上の関係性。エンドゲームで消えたサノスはインフィニやれないし、過去ネビュラが死んだ時点で今ネビュラは消えないのはなぜかという点。ターミネイター2みたいに分岐で違う未来ができたと考えるにしても、過去は変えない(インフィニティ・ウォーは起きた)前提のストーリーラインだから無理がある。
アントマン中心に過去に遡るアイデアを話す中で、赤ん坊のサノスを殺す案を否定したり、エンシェント・ワンとの会話の中で、「元の時間軸に戻すから」と言ってるけど、厳密に言えば過去に干渉した時点で分岐は起きてるんだしねえ。まあそこは分岐が起きまくっていて、エンドゲームに勝った時点で過去に経験したインフィニが消えた場合(過去に干渉した事後に歴史書を読んでるとその記述がふわーっと消えてくタイプのあれね)の、新しく過去が組み直された時間軸の物語、苦しいけど量子論の世界には時間というものがないから現在にとって過去はシュレディンガーの猫みたいなもの(現在の観測結果が過去を決定する)とか、、、でもだったら石戻さなくてもよくね?ってなっちゃうけどw
だいたい過去作品に前振りないじゃんってのもある。そこも辻褄合わんとこもある気が。
時間遡行ものの物語は1話ものなら前振りに入れて組み上げらるんだけどねえ。10年分のプロットを前もって組み上げるのは不可能なのでおおめに見るとこもあるかなあ。元のストーリーでもそれは起きてたけど、各作品において省略されてたから見てた人は気づけなかった部分と考える(こっちの方が今回の制作意図的には妥当だが)ことは可能だけど。
アイアンマンの指パッチンで消えたサノス軍は死んだネビュラ含めて無傷のまま記憶を消されて元の世界に戻されたと考えると割とスッキリするけど、そういった描かれ方じゃなかった(だいたいガモーラどうすんだよ。戻したの?、、、戻せば辻褄合うけど、、、辛すぎる)ような、、、まあそう解釈してもいいけど、次のGOG3でどうなってるか次第かな。出てくるなら先に述べたBプランのイーガン風量子論(過去側に伸びる時間軸も分岐起きて、現在の時間軸上から過去の戦いは消えてるんだから、石返す必要なかったけど、みんな気づいてなかった、もしくはわかってたけど石の始末を兼ねてのお詫び行脚、、、キャップは途中であれ?サノスいなくね?ならインフィニティ・ウォーねえじゃん?ってなって気づいたけど、まあじゃあ返し終わったら戻んなくていいんじゃね?と思って最後のジャンプを自分のために使ったということかと、、、、苦しいw)で解釈ということで。
整理すると
Aプラン
過去から来たものは全部元に戻した。ガモーラはエンド・ゲームが起きた時間軸からは消える。
Bプラン
サノスたちはエンド・ゲームで消えたので、インフィニティ・ウォー含む過去が消えた。ガモーラはこちらにとどまる。その時代を生きてきたキャプテンは気づいてた。
のどっちか、、、てかさ、厳密にいうとタイムリープものなんて、みんな干渉が起きた時点で分岐が発生するんだから元に戻るはずないの!そもそもありえないことを仮にあるとして楽しむのがファンタジーだからグダグダ言わずに楽しめばいいじゃんか!(逆ギレ)
あと、最後のクライマックスシーンはほんとはラグビーやらんでちゃっちゃとハルクとかマーベルが担当する役回りだよねえ、、、なんであんたがたまたまそこにいるんだよ。かっこよすぎるじゃないか。生き返ったワンダの現実改変能力でそれをマーベルにやらせれば避けられるような気もするが、まあいいかw1400万分の1の確率のたった一つしか選べない解決法がこれなんだから、それ以外の道を選んだら上手くいかないということなんだし。
まあそうしたツッコミどころに対する解釈は自分の独自解釈なんで、ここに気づいた人はなんとか各自解消するでしょうと。気づかなかったらそれはそれでいいし。
エピローグのキャプテンも味わい深かった。衣装がね、、、もうもろ共和党支持者のおっさんのかっこじゃん。クソ真面目君すぎてずっと損な役回りだったけど、最後にちょっとわがままをやらかして小さな幸せは掴めたんだね。うんうん。でも同一時間軸上のもう一人のキャプテンとはどう折り合いつけたんかね?エンドゲーム後に消えるまで鉢合わせしないようにひっそり隠れてじっと見守ってたんかね?心痛みそうな。
しかし義を見てせざるをえない性格の人が、それが最適解だからといって元俺と仲間の苦境に手出ししないその人生を楽しめたかはいささか疑問ではあるw
彼女と結婚した時点で過去を変えないという、仲間で決めたタブー犯してるし(細かいことはいいんだよ!二人の間の秘密にしてたから、元俺含む仲間たちや視聴者はその時は気づかなかっただけなの!キャップはこれやっても大丈夫と知ってたの!)
細かいこたあいいんだよw
しかしまあ、テーマを貫き通した上で、世界観の異なる素材を使った10年分のプロットをよくここまで構築してまとめあげたもんです。この工業生産能力的な集合知の力とリベラルな思想性の合体技、すごいわ。
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画
- 2019/05/07(火) 21:36:35|
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