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イラスト&マンガ職人HAYAKAWAZのブログ

【映画】JOKER

ネタばれ含むのでスルー推奨

ここのところのハリウッドのエンタメに政治的テーマを絡めるというトレンドの中で、MCUに押され気味だったDCがDC(というかバットマンシリーズの持つダークネス)ならではの持ち味で、見事に仕上げた作品。大傑作と言っていいと思う。

ヴィランとしてのジョーカーはこれまでにもなんども描かれてきた。ジャック・ニコルソンのはまり役といってもいいし、ヒース・レジャーに至っては主役の存在を食うほどの究極のヴィラン像を確立したといっていいといえる。
配役にホアキンと聞いたとき、まあ性格俳優とはいえるが、先人のイメージを超えるものになるとは思えなかったし、ヴィランである以上、共感という方向で成立させるわけにはいかないわけで、どう料理するのかというところに非常に興味があった。それが今回、先の二人とは全く別の領域で見事に確立されたキャラクターを作り上げ、政治的なテーマときっちり結び付けられていたことは素直に驚いた。

このジョーカーはまさにホアキンにしか演じることはできなかったといえるだろう。彼の出演作の中ではグラディエイターの皇帝役が最高にホアキンの持ち味を出したはまり役と思っていた。シャマランには悪いが、ホアキンはあの気色悪さ、情けなさこそが彼の良さであり、あれを超えるものはなかったのではないかと思っていた。まあそんなに隅から隅まで見たわけでもないけど、今回の抜擢の背景にはあの卑怯で情けない皇帝の姿があったのではないかという気がする。

70年代の米国産映画はハリウッドの娯楽に徹した作品と、ニューシネマのような社会性をテーマにした映画にはっきり棲み分けられていた。それがゼロ年代ごろのスパイダーマンあたりから、エンタメに政治的なメッセージを込めることにより、子供から大人までを取り込むことに成功したのだが、この作品はもろにニューシネマ寄りに振り切ってしかもエンタメとして成立させるという、難しいことをやっている。ニューシネマからの影響(オマージュ)としてはデニーロの起用(とアーサーの上半身裸)や母の殺害シーン(カッコーの巣の上でのジャック・ニコルソン)などにも見うけられる。
まあそれだけに普通の映画と思って見にきた客の中にはエンディングで呆然とした者もいたかもしれないが。

映画のテーマは格差拡大、弱者切り捨てという、ここのところの世界のトレンドに対する問いかけのメッセージが込められている。
公共の福祉とは社会の安定化に対するコストも含めて考えるべきものである。
リバタリアンやネオリベがいくらこの世は自業自得、自己責任、努力のできない気持ち悪いやつは死ね!自分は頑張っているのに弱者は甘えるな!といったところで、弱者切り捨てによってもたらされた社会の荒廃はいやおうなしに自分は正しい生き方をしていると言い張るものも巻き込んでいく。もちろん行政の無策の影響による暴動の巻き添えを食ったウェイン夫妻が悪いわけではないし、暴行を肯定するわけではないのだが。
税金を弱者に振り分ける意味とは、結果的に社会の安定化をもたらし、市民や富裕層の生活を守ることにも通じるということでもある。

アーサー自体に共感できるかといえば、彼の持つ異常性や気持ち悪さゆえに難しいのだが、物語全体の構図としてとらえると、権力者が弱者を切り捨てているという現状に自分を重ね合わせて、彼の犯す犯罪にいくばくかの共感を感じてしまう部分もある。
彼が殺人を犯した後の踊りのシーンはそこに重ねられた重厚なチェロの音と相まって、ゾクゾクする美しさがある。
社会の中で気持ち悪がられ、虐げられてきた存在だった彼は、偶発的に犯してしまった殺人をきっかけとして、自身のステージが上がっていくのである。

音楽に興味のない人にはわからない話なのだが、英国ロックファンの自分にとって、この気持ち悪がられる立場からの一発逆転構造というと、モリッシーという存在をつい思い浮かべてしまう。彼も母子家庭でいい年をして自宅から出ず、ジョニー・マーと出会わなかったらあのまま世を呪う引きこもりとして埋れていたかもしれない。
まあ日本のファンはこの気持ち悪さはピンとこない人もいるかもしれないが、デビュー当時、自意識過剰のキモい男に関する歌詞を変な声で歌い、くねくね踊るモリッシーは英国では十分気持ち悪がられていたと思う。ファンもみんな非モテの若い男ばかりだったし。
毒に満ちた鋭い感性によって練り上げられた世の中に呪いをかけるような皮肉に満ちた歌詞を書くモリッシーは、美しいメロディを書くマーとの出会いによって結成されたスミスのフロントマンとしての存在感(キモいが美しい)につながることによって成功を収めるのである。

モリッシーには隠れた詩の才能があったが、アーサーの場合の才能は殺人。
アーチストと殺人者は裏表の存在といったのはかつてのコリン・ウィルソンだったが、そのきっかけは些細な偶然によってもたらされる。アーサーの場合は同僚から押し付けられた拳銃だったということ。あれがなければただの気持ち悪い男として終わったのかもしれない。

この偶発性は誰の身にも起こりうることだとするなら、これを観ている自分がジョーカーにはならずとも、彼を崇める暴徒の側に立つ可能性だってあるわけである。
ジョーカーの存在はこんなクソのような世の中など滅んでしまえ!という人々の呪いの心を掻き立てる。

ただし、この映画がかつてのノワールの時代から明らかにアップデイトされているのが、暴力性に対する本能的な共感を断ち切る構造。
階段で踊るシーンは一歩間違えれば大怪我になるところをすんでにかわす危うく美しいスタイリッシュなもので、ホアキンの持つ気持ち悪さが美に転じて一瞬かっこいいと思うのだが、直後に刑事に追いかけられて無様に逃げ惑う。自分を馬鹿にするために呼んだ司会者を撃ち殺し、カメラに向かって何かを言おうとしたシーンでいきなり放映は断ち切られる。
人々が抱く、ジョーカーに重ね合わせたこの世界に対する呪いの感情は、物語の中で若干コメディタッチに振った次のシークエンスによって断ち切られ、憧れに昇華しないように構成されている。

そしてラスト、彼を崇める暴徒を前に意識を取り戻し、何を求められているかを知り、車の上で踊るシーン。ここは最高の晴れ舞台であるはずが、直後に病室のシーンに切り替わる。
ここは見るものにいかような解釈も成立させ得る構造になっている。このシーンは、すべてが彼の妄想だったという解釈も成り立つが、一方でその前の暴動シーンの後に逮捕され、医療刑務所においてカウンセラーとやりとりをしているとも解釈できる。いずれにせよ暴徒のその後は描かれることはない。
そして、ここは明確にされてはいないものの、最後に血まみれのスリッパで廊下を歩き、追いかけられることで、ここがジョーカーの出発点だったという解釈も成り立つ。あるいは彼はジョーカーとは無関係な妄想癖の患者という考えも成り立つ。
受けたら続編、という流れもあるので、続編が作られたならばこのシーンの解釈は明らかになるのかもしれないが、ここはこれで終わることで観るものに委ねられた余韻を形成している。

ジョーカーというネタを元にここまで深い物語に組み上げるとはお見事!というしかない。

しかし、頻繁に出てくるアーサーがタバコを吸うシーン。喫煙者にとっては結構辛い。
昔は公共施設ではどこでも吸えたんだぜ。禁煙なんて概念なかったんだから。といっても今の若者は信じないだろうなあ。
新しい概念に上書きされることによって、感覚的記憶は書き換えられるのですのよ。
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  1. 2019/10/18(金) 20:36:09|
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【映画】アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー&エンドゲーム(ネタバレ感想)

前後編だったわけだが、個人的にはインフィニティウォーに衝撃を受けた。

ネタバレ含むので長い前置きから入る。未見の人はそっ閉じ。

アベンジャーズに通底するテーマは「正義(力)とは何か?」

そもそもアベンジャーズというチーム名は悪に対する「報復」という意味であり、日本語の語感のせいもあるかもしれないが、米国60年代までの価値観のような気もして、違和感がある。キャプテンの武器が盾であることとの兼ね合いで専守防衛というならSHIERDのなになにみたいな名称の方がよりふさわしいように思えるが、長年親しんできた名称を今更変えるわけにもいかないということだろうか。
ただ、今でも米国発のスポーツ文化において、例えばホームランのあとに相手投手を侮辱するような行為をした場合、次の打席で死球でやり返すことをよしとする価値観は残っているわけで、彼らのやられたらやられた分はきっちりお返しして良いとするフェアの感覚には英国発のサッカーのような故意は悪だが激しいプレーの結果のファウルはよし(仕方なし)とするフェアプレー精神とは異質な文化的な意味が残っているのかもしれない。

米国におけるジャスティス(正義)は単純に普遍的な一つの思想とは言いがたく、ゆえにアベンジャーズシリーズでも様々な正義が提示されてきた。その象徴としてリベラル(民主党)よりのアイアンマン、リバタリアン(共和党)よりのキャプテンアメリカが立てられ、これはまた米国ドラマ伝統のバディもの的な対立軸にもなっていた。ただ、マーベルに関して共通するのは「ヒーローは困っている人がいるなら各自の能力を使って全力で助ける」ということがジャスティスの基本で、助け方の違いとも言える。

前置き終了。

ここまではまあいいとして、最も驚いたのはインフィニティーウォーにおいて提示されたサノスの正義という視点。

彼の目的は現代社会における人口問題に対する功利主義的解決法とも読み取れる。サノスは世界の半分を消すことにより、この世界に調和をもたらすことができるということを知っており、それを目的とする。
サノスは絶対悪ではなく、目的の達成に対して取る手段においては徹底的に冷徹であるが、目的達成のためであっても嘘はつかない、身びいきで誰かを選択するという形の差別はしないという信念を持つものとして描かれている。そして彼のいう通りに世界に秩序が生まれる。これはある意味、人類の過ちを正すためにその大半を滅ぼしたという(ユダヤ)神話における神の視点を持つ存在ともいえる。もはやヴィラン(絶対悪)じゃねえじゃん。

米国のエンタメ界においてこのような「一理」を敵の側に持たせるという時代になったのか!そしてそれは(ユダヤ)神の否定じゃん!という点が最も驚いたところである。

善悪二元論の価値観を持つキリスト(ユダヤ)教世界において、倒されるべき側は絶対悪であることを要請される。それゆえに社会派ドラマは別として、子供も見るエンタメ系の映画において、今まで悪の側に一理を持たせるということはほとんどなかったように思う。
ましてやサノスは根っからの悪人ではなく、ガモーラを愛していた。そのガモーラを大義のために捧げた時点で、その愛は自ら否定せざるを得ないことにはなるのだが。小さなガモーラに世界の均衡がもたらす平和な世界について語るサノス。ガモーラを失ったことを悲しむサノス。彼を絶対悪と言うことはできない。

そして彼は最後までフェアネスを貫き通して、事後は一人農場で死を待っている。インフィニティストーンの力を持ってすればなんでもできる(アベンジャーズに殺されることも防ぐことができる)ということを知りながら、自らも含めてそれを悪用してしまう可能性を潰すためにそれを破壊してまで。
ここが指輪物語の悪と決定的に異なる部分。

サノスが世界の半分を消した後、小悪党以外の悪は存在しなくなっている。ヒーローを必要としない平和な世界が訪れているのだ。そこにある悲しみは、かつていた人たちが失われてしまったという記憶であり、その記憶を持つ人たちがいなくなれば、いずれ誰も悲しまない理想郷が実現する。

このような敵の描き方がかつてあっただろうか。

マトリックス3において、当時の米国のイラク侵攻批判という政治的意味性を反映させた「敵の側にも生活があり、その敵と思っていた存在によって世界に調和がもたらされていた」という形での提示はあったものの、人間側の不幸は解消されておらず、若干消化不良な形の結末で、映画としての完成度として見た場合には成功しているとは言い難かった。

日本の漫画やアニメにおいては敵にも理があるという物語は普通にありふれてはいて、そうした日本の表現を研究した成果とも言えるのかもしれない。だがそれをキリスト教的世界観を持つ人々に対してここまであからさまに表現して、納得のいく形(この結末が完全な正義の達成であるとは言えないということも含めて)で完成させたということ。これはMCUが一貫して追い求めていた「正義とは何か」というテーマにおいて一段深い世界観に突入したということを意味する。正義の中からも過ちによって悪が生まれる(主にアイアンマンの科学至上主義と進歩主義によって)という視点は初期から提示されてはいたものの、悪に見えるものでも実は完全な悪ではないという視点の提示をここまで突き詰めるとは。今回の前後編には心底驚いた。

それに対してアベンジャーズの側の「正義」とはなんだったのだろう。

彼らはサノスのしたことの意味は知っている。この世界を肯定し、ハルクのようにヒーロであることをやめてこのまま一歩前に進もうというものもいれば、納得はいかないがどうにもできずに飲んだくれるソーのようなものもいる。脇道だけど、ソーの姿って、騎士だった貴族が戦いから離れた後のジョンブルみたいだよね。死に場を失った彼らの誇りを保つためには、飲んだくれて死ぬのを美学とした、みたいな。サノス級の存在なはずなのにコメディリリーフみたいになっちゃったけどw

そんな中でアントマンのアイデアを得て彼らの出した結論は、今回生き残ったものがこのまま何もしなければこの世界に波風は立たないと知った上で、自らが今後辛い目にあうとしても、消えていった人たちを「消えてよかった」とはしない思想。トータルインクルージョンの価値観に基づいた世界を目指す道を選択する。

全体の話としては単純に見ると軍国主義に個々のヒーローが団結して対抗するという筋立てなのだが、理念(政治)的側面から見た場合、現代のグローバリズム、ネオコン、ネオリベ等のよりベターな結果を得るためには切り捨てることもやむなしという功利主義(国家主義、全体主義)的思想と、素朴なリベラリズム=自由主義(個人主義、民主主義)の目指す最大多数の最大幸福の戦いとも言える。
それはまた、思想的には合理主義と理想主義の戦いとも言えるし、神学的には神の摂理に対する人の情理(不完全な存在の人間のなす過ち=不条理の内包)のようにもみえる。

人の世の理想はどこまでいっても理想である。見果てぬ夢と知って、多くの痛みを伴う敗北を生じつつ、前に進む決意。彼らは平和的な保守ではなく勇気を持った改革の道を選択したとも言える。
そしてそれはコスモス(調和)に対する報復(アベンジ)とも言えるだろう。
とすれば、彼らの行為も絶対正義とは言い切れないのではある。神の視点から見れば、間引くことによって実現された調和のとれたこの状態を元に戻すという行為は再びヒーローを必要とする争いの世界に戻すという愚行でしかない。だがそうして人類は発展してきたのであり、彼らは誰一人として切り捨てられていい人はいないという理想に基づいた、愛する人たちを可能な限り救うという、これまでと同じ道を選択をする。

彼らの理想とする正義は「ひどい目にあっている人がいたら、それがどんな人であっても救う」ということ(人道主義)であるが故。
そこはリベラル(アイアンマン)でもリバタリアン(キャプテン)でも同一の価値観であり、価値相対主義に陥らず、ぶれることはない。自己責任論者や排外主義者はおとといきやがれなのである。

でもさ、この図式って神に対する反逆じゃん。冒頭でも書いたけど、サノスのやったことって、ノアの洪水やソドムとゴモラに代表されるエホバの考え方(上手くいかないとリセットする)じゃん。それに歯向かう物語って、、、こんなことキリスト教世界で表現しちゃっていいの?
わしはペイガン(原始仏教徒)だから一神教における善悪二元論や慈悲深いという設定のはずなのにひどいこと平気でやる純粋善なんて意味わからんわ!誰が認めるかよ!エホバキルでござる、いいぞもっとやれ!なんだけどさ。

まあそこに気づくことなく楽しめる作りになってるけど、気づいたら憤慨する人いるよね。

エンドゲームの筋立てにはツッコミどころはいっぱいある。

まず一つ目のツッコミどころは適材適所で計画を立てていない点。
キャプテン・マーベルという超越的能力を持ち、どの時間軸にも影響を与えにくいチートキャラがいるにも関わらず彼女を使わず、あえて同時間軸に同一人物が存在するリスクを犯している。このタイミングでこれがあるというということを知っているというのは確かに有利ではあるが、それでもやらかしてるし、科学力使って情報仕込んでいけばいい気もする。

こうした無茶振りは逆に物語性における適材適所になっている。
トニーが(そうと知らずに結果的に戦争ビジネスという悪で財をなしていた)父を励ますシーン。現代の我々が過去からのドラスティックな価値観の変化をどう受容すべきか、どうしたら(死んだ)相手を傷つけずに自分の心に決着をつけられるかという話でもあり、非常によく練られている。
ホークアイとブラックウィドウに関しては、なぜそこにその二人?ご都合主義にもほどがあるが泣けすぎるじゃないか!
またネビュラが混信するがゆえに危機を生じるエピソード。これがあったので話が盛り上がるわけだけど、その危険性は最初から気づいててもよくね?的な。
それに何より、過去エピソードをまた見たくなりすぎるじゃないか。構成うますぎる。

最大のツッコミどころはインフィニティ・ウォーの戦いと、エンドゲームの戦いとの時間軸上の関係性。エンドゲームで消えたサノスはインフィニやれないし、過去ネビュラが死んだ時点で今ネビュラは消えないのはなぜかという点。ターミネイター2みたいに分岐で違う未来ができたと考えるにしても、過去は変えない(インフィニティ・ウォーは起きた)前提のストーリーラインだから無理がある。

アントマン中心に過去に遡るアイデアを話す中で、赤ん坊のサノスを殺す案を否定したり、エンシェント・ワンとの会話の中で、「元の時間軸に戻すから」と言ってるけど、厳密に言えば過去に干渉した時点で分岐は起きてるんだしねえ。まあそこは分岐が起きまくっていて、エンドゲームに勝った時点で過去に経験したインフィニが消えた場合(過去に干渉した事後に歴史書を読んでるとその記述がふわーっと消えてくタイプのあれね)の、新しく過去が組み直された時間軸の物語、苦しいけど量子論の世界には時間というものがないから現在にとって過去はシュレディンガーの猫みたいなもの(現在の観測結果が過去を決定する)とか、、、でもだったら石戻さなくてもよくね?ってなっちゃうけどw

だいたい過去作品に前振りないじゃんってのもある。そこも辻褄合わんとこもある気が。
時間遡行ものの物語は1話ものなら前振りに入れて組み上げらるんだけどねえ。10年分のプロットを前もって組み上げるのは不可能なのでおおめに見るとこもあるかなあ。元のストーリーでもそれは起きてたけど、各作品において省略されてたから見てた人は気づけなかった部分と考える(こっちの方が今回の制作意図的には妥当だが)ことは可能だけど。

アイアンマンの指パッチンで消えたサノス軍は死んだネビュラ含めて無傷のまま記憶を消されて元の世界に戻されたと考えると割とスッキリするけど、そういった描かれ方じゃなかった(だいたいガモーラどうすんだよ。戻したの?、、、戻せば辻褄合うけど、、、辛すぎる)ような、、、まあそう解釈してもいいけど、次のGOG3でどうなってるか次第かな。出てくるなら先に述べたBプランのイーガン風量子論(過去側に伸びる時間軸も分岐起きて、現在の時間軸上から過去の戦いは消えてるんだから、石返す必要なかったけど、みんな気づいてなかった、もしくはわかってたけど石の始末を兼ねてのお詫び行脚、、、キャップは途中であれ?サノスいなくね?ならインフィニティ・ウォーねえじゃん?ってなって気づいたけど、まあじゃあ返し終わったら戻んなくていいんじゃね?と思って最後のジャンプを自分のために使ったということかと、、、、苦しいw)で解釈ということで。

整理すると

Aプラン
過去から来たものは全部元に戻した。ガモーラはエンド・ゲームが起きた時間軸からは消える。
Bプラン
サノスたちはエンド・ゲームで消えたので、インフィニティ・ウォー含む過去が消えた。ガモーラはこちらにとどまる。その時代を生きてきたキャプテンは気づいてた。

のどっちか、、、てかさ、厳密にいうとタイムリープものなんて、みんな干渉が起きた時点で分岐が発生するんだから元に戻るはずないの!そもそもありえないことを仮にあるとして楽しむのがファンタジーだからグダグダ言わずに楽しめばいいじゃんか!(逆ギレ)

あと、最後のクライマックスシーンはほんとはラグビーやらんでちゃっちゃとハルクとかマーベルが担当する役回りだよねえ、、、なんであんたがたまたまそこにいるんだよ。かっこよすぎるじゃないか。生き返ったワンダの現実改変能力でそれをマーベルにやらせれば避けられるような気もするが、まあいいかw1400万分の1の確率のたった一つしか選べない解決法がこれなんだから、それ以外の道を選んだら上手くいかないということなんだし。

まあそうしたツッコミどころに対する解釈は自分の独自解釈なんで、ここに気づいた人はなんとか各自解消するでしょうと。気づかなかったらそれはそれでいいし。

エピローグのキャプテンも味わい深かった。衣装がね、、、もうもろ共和党支持者のおっさんのかっこじゃん。クソ真面目君すぎてずっと損な役回りだったけど、最後にちょっとわがままをやらかして小さな幸せは掴めたんだね。うんうん。でも同一時間軸上のもう一人のキャプテンとはどう折り合いつけたんかね?エンドゲーム後に消えるまで鉢合わせしないようにひっそり隠れてじっと見守ってたんかね?心痛みそうな。
しかし義を見てせざるをえない性格の人が、それが最適解だからといって元俺と仲間の苦境に手出ししないその人生を楽しめたかはいささか疑問ではあるw
彼女と結婚した時点で過去を変えないという、仲間で決めたタブー犯してるし(細かいことはいいんだよ!二人の間の秘密にしてたから、元俺含む仲間たちや視聴者はその時は気づかなかっただけなの!キャップはこれやっても大丈夫と知ってたの!)

細かいこたあいいんだよw

しかしまあ、テーマを貫き通した上で、世界観の異なる素材を使った10年分のプロットをよくここまで構築してまとめあげたもんです。この工業生産能力的な集合知の力とリベラルな思想性の合体技、すごいわ。
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2019/05/07(火) 21:36:35|
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クリエイター氷河期?

 あんまりネガティブなことは書きたくないのですが、、、最近はつくづく、なにがしかの創作物で飯を食ってる人間にはつらい時代だという実感があります。

 CDは売れないし本も売れない。広告費も大幅カット。少子化も含めてパイはどんどん減っているという時代になってきたと言えます。もちろんそんな中でも個別に見た場合、儲かっている人はいるでしょうけど、そうした事例は別として、業界がシュリンクしている以上、平均的に一人頭の分け前は少なくなっている。そして一方、作り手はデジタル化の恩恵もあり、参入の際のハードルは下がっている。まあ新しい人がどんどん出てくるということは活性化にも繋がるわけで、それ自体は良いことだとは思いますが、私らのようなロートルもしぶとく生き残っている以上、かつてのように少ない頭数で今より大きなパイを分け合っていた時代と違い、デビューはできたものの仕事として続けていくということは困難になっているとはいえると思います。

 長年やっていると、才能だけでなんとかなるというものではないということに多かれ少なかれ気づくと思います。まあこれも個別の例でいえば、ものすごく突出したものがあればなんとかなる部分もありますけど、かつてものすごく売れた人が現在どうかということを考えると、セルフプロデュースに長けたごく一部の人を除いて、なかなかかつての絶頂期ほどは売れているとはいいがたい。まあ自分のようにずっと低空飛行の人間にいわれたくはないでしょうが、どんなジャンルでも流行り廃りはあり、絵の場合は2~3年で入れ替わりがあるように思えます。

 かつてはそれでも底力のある人は、その後仕事が無くなるわけでもなかったので、なんとかなってきたとは思いますが、ここのところ、そうした実力でなんとかなっていた部分もなかなか厳しくなったという実感があります。自分の周りでも羨ましいほどの才能を持っていて、人当たりも良くて、自分が頼む側だったら凄く大事にしたいと思うだろうなあという人たちが、職を変えて引退したりバイトをしないとならなかったりということがちらほら。
これは決して本人がダメになったというわけではないので、外的な要因によるものであろうとは言えるわけです。

 原因としてはいくつか考えられるわけですが、その一つにこれは善し悪しの話ではないのですが、ネットの普及ということがあるのかと思うのです。

 頼む側は昔でしたら、売り込みにきた人や、他の媒体で見かけた人のタッチを見て、その媒体に合うと思えば仕事を頼むというスタイルが主流でした。この時代は出会いのチャンスが少ないので、必然的に同じ人に継続的に仕事を頼み続けるということになっていたように思います。逆に言えば、営業力がなかったり、出会いのきっかけがなかった人はどんなに才能があってもチャンスに乏しかったとも言えます。

 ところがネットの普及により、頼む側は多くのイラストレーターの中から、そのとき必要な絵を描けそうな人を画像検索で捜し、その中から相みつを取って一番安く頼める人を選ぶという形になってきたように思います。まあ実際に自分に問い合わせが来る場合、たいていはそんな感じです。相みつじゃないものは決まりますが、相みつだとあらかじめ言われて見積もりを出した場合に成立することはあまりありません。自分としては多分業界最安値ラインだと思うんですけど…。

 コスト重視の発注ですと、相手の実績も特に気にすることもないですし、どうしてもこの人に頼みたいというようなものではないので、何でもいうことを聞きます!タダでもやります!みたいな人が有利になってくる。自分はそのやり方では生活できませんから、ギリギリのラインで見積もりを取ってるつもりですけど、頼む方としてはどうせ一回こっきりのお付き合いですから、作り手の思惑は関係ないでしょうし、それを責めても仕方はない。新規参入は容易でも継続していくには厳しい時代と言えましょう。

 で、ものすごい才能があって売れに売れている人とか、ものすごくガッツがあって毎日営業するくらいの元気がある人とかは除いて、こんな時代に普通のクリエイターはどうすべきかと言うと、兼業しかないかなあという気がいたします。まあ実際、自分も講師をやっているので兼業とはいえますが。

 若手の人の場合はとりあえずデザイナーとしてどこかに雇ってもらいつつ、イラストの仕事も請けていくというのが現実的なんじゃないかなあと思います。若い人にそうずばり言うのは気が引けるのですが、当たればでかいというようなものもそうそう無い世界ですので、絵を描くことが好きで長くイラストの仕事を続けていきたいと思うなら、とりあえずその辺のことは考えておいた方が良いように思うのです。

 兼業であれば、仕事を選べます。ものすごい安い値段の募集をスルーしていけば、時給換算で言えばおいしい仕事として考えられるでしょう。これが専業で、どんな値段でもやります!とやってしまったら、どこかで必ず行き詰まります。もちろん行き詰まったところで考えるのもアリだとは思いますが、若いうちにデザイン方面の経験を積んでおいた方が、長い目で見た場合、良いのではないかと。

 まあ先のことは分からない時代ですし、ロートルの戯言かもしれませんけどね。
  1. 2012/02/25(土) 03:16:38|
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企業向け漫画に関して

 漫画というと人は基本的に書店で雑誌や単行本の形で売られているオリジナルの漫画を想像するでしょうが、その他にもいろいろあります。出版社の企画先行のハウツーものや、レポート的な漫画、学習漫画、企業向けの広告用や社内報用の漫画など。現在、自分の漫画で請けている仕事は、基本的にはオリジナル以外のジャンルの仕事がほぼ100%です。こうした仕事はまず企画、発注ありきということです。
 出版社と代理店経由の仕事の場合、大きな違いは2つあります。

それはギャラと担当さんの決定権。

ギャラ
 出版の場合はギャラは安め、といってもオリジナル漫画を描いている新人さんよりは若干良い値段ではあります。単行本で二次的な収益が見込めるような仕事とは違いやりきりになりますので、最初の発注時にいただくギャラで生活が成り立つ程度と考えると、高すぎず、安すぎず妥当な線でというところで落ち着きます。自分が今まで実際に請けてきた実績から考えた場合、版形やページ数にもよりますが、モノクロで雑誌なら1.5万円前後、単行本なら1万円前後が相場でしょうか。カラーならだいたいその1.5~2倍。
 これに対して広告の場合はその2~10倍程度のギャラということになります。幅があるのは担当さんの決定権との絡みもあるのですが、これは後述します。その他は著作権使用料の絡みです。広告などは、さまざまな媒体に広く配布されるものです。また使用目的も大雑把なくくりでは広告と言えますが、雑誌広告やチラシ、ポスター、パンフレット等、再利用の機会も多く、本来の著作権法からすると、その都度使用許諾をとるべきであり、使用料がかかるはずですが、これは手間や費用を考えると現実的ではありません。ですので、正式な契約書を交わさない場合でも、使用範囲を大きめに見積もった料金になるという考え方です。これに加えて、バッティングを嫌う業種の場合、半年から1年程度は同業他社の仕事を請けないようにする必要もあります。この辺の独占的な契約に関しては明確な取り決めがなされないことも過去は多かったのですが、まあこれだけのギャラを出すんだから言わずに察しなさいね、というようなものでもありました。今だったら契約を交わして明文化した方が良いでしょうね。このように使用形態の違いに応じて、小さなところの社内報等は出版の2倍程度~大企業の広告なら10倍程度と言った価格の開きが生じるわけです。

決定権
 出版の場合、よほどのことがない限り、直接の担当さんとその上司くらいのチェックですみ、リテイクがあることはほとんどありません。医療関係など、厳密性を求められるものは若干チェックが厳しいとは思いますが、事実関係のチェック程度です。何か問題があっても、決定権をまかせられた担当さんとの直接のやり取りでスムーズに済むので、この点で苦労することはあまりありません。
 これに対して企業向けの仕事の場合、決定権を持つのは基本的にはクライアントの内部のどこかで、その間のチェックポイントは間に挟まっている代理店にもあるということになります。これがときとして状況をたいへんややこしいことにすることになります。

 ケースに分けて考えてみましょう。

ちゃぶ台返し
 簡単な直しなら良いですが、クライアントが完成後にいきなり構成を変えろと言ってくるような場合もあります。デジタルだから簡単?そんなわけありません。ほぼ全部描き直し。
 間に立つ代理店が1社できちんと仕事をする企業なら、シナリオ、絵コンテ、下描きの各ポイントできちんとクライアントレベルのチェックをしてフィックスしますから、おおむね問題ない話ですが、大きいところの仕事の場合、間に何社も代理店が挟まっていたりして、最終納品の際にしかクライアントのチェックが無いなどということもあります。それならば、制作側は最初の設定料金に修正料を含んでマージンを多めに取っておくか、リテイク料は別料金設定にすれば良いとも言えます。かつてはそうでしたが、最近は川上の料金が激減で、川下の制作会社はギリギリでまわしているところが多いと思われます。一方、これは昔も今も変わりませんが、広告代理店の多くはかなりの中間マージンを取っています。これが何社も重なると最終的には元値の10分の1とか下手したら何十分の1の値段で制作側は請けることになります。元値がじゅうぶん高かった時代ならいざ知らず、未だにこのようなシステムでまわした場合、川下の制作会社は最悪3万とかで請けて漫画家には1.5万でおろすようなこともあります。
 クライアント側は広告費を削ったにせよ、それでも1枚ン十万払ってるんだからリテイクは当然と思っているかもしれませんが、その金額の大半は中間で消えてしまっています。そんな状況で制作会社がリテイク料を負担することはきついことは理解できます。元請けの代理店はその数倍の料金を取っているし、仕事量的には制作会社に比べて同じか少ないくらいですので、リテイク料を出してもたいして腹は痛くないかもしれません。またクライアントからリテイク料をとっても良いかもしれませんから、リテイクが発生した際には代理店がきちんと交渉すれば良いようにも思いますが、最近の代理店や制作会社は上と交渉をする能力がない場合もあります。こうした中間業者の場合、双方向のディレクションという概念がありませんから、こちらが何を言っても上には通じません。いくら言葉を尽くして説明してもいい加減どうにもならない場合は、こんな低料金でそれは無理ですから、やめときましょうか?となるときもあります。そうなって初めて本気で考えたりしますけど、これをやっちゃうとかなりお互いに気まずくなります。次の仕事はないと思った方が良いので基本的には避けたいことです。
 このような経験を何度もすると、さすがにこちらも用心深くなります。最近は新規の依頼をお請けする際、こちら側としては制作会社より上の状況に関しては判断不能ですので、安い値段を提示された場合は、各工程でクライアントのチェックを取ってフィックスするか、それが無理ならリテイク料は別にしてくださいと提案することにしています。これは先を見越しての提案にすぎず、そんなに無茶なことを言っているつもりはないのですが、交渉能力の低い制作会社、もしくは担当さんはびっくりするようで、たいてい嫌われてそれっきり話が流れたりします。言いなりになる人としか仕事をしないということでしょうか。それ、結局いつかどこかで破綻すると思うんですけど…。
 もちろんちゃんとした制作会社や担当さんの場合は、無茶なちゃぶ台返しのようなまずい状況になったときに、きちんと双方の間に立って考えていただけますので、そもそもこうした問題はないのです。

船頭多すぎ
 企業によってはなにかにつけ、会議で決定する場合もあるようです。この場合、何か意見を言わないとまずいかも状況が発生します。自分ではたいして問題ないと思っていても何か言わないと存在感が示せない。そこで無理矢理なんらかの修正点を出してしまう。まあ1回なら良いです。これが各工程ごとに何度もいろいろな人の感覚を織り交ぜて繰り返されると、最初に通ったことが後でダメになったり、1回転して最初に戻ったり、わやくちゃになります。また、出た意見をその場できちんとすりあわせずにこちらに投げられると、結果的に二律背反する要素が平行することになっていたりすることもあります。
 これに対してはこちらでどうこうすることは非常に難しいです。こちらにしても、だいたい仕事を進めているうちに気づくたぐいの問題ですから、もうそうなったらあまりいい結果を生まないのを自覚しつつ、ギャラで納得するしかないでしょう。中間に入った担当さんがうまく調整してくれる場合もあります。そんな担当さんとお仕事ができた場合は、多少いやなことがあっても、救われる部分があります。

決定権を持つ企業側担当者が自分の好みにうるさい場合の例。

著作権的に微妙に問題ありそうな要求をしてきてしまう
 ○○先生と同じタッチにしろとか、もめておりた前任者のタッチとそっくりにしろとか。いやそりゃタッチ自体には著作権はないですけど、さすがに企業なんだからクレームついたらまずいでしょ。その辺は間に入った業者が説明してくれると良いのですが、たまにコンプライアンスに無頓着な業者もいるので、そんなときはこちらが気をつけた方が良い。それでその辺を説明したりしますが、じゃあほかの人に頼むから良いですってなってしまうこともあります。これも先に述べたように間に何社も入って意見を上に上げることができないような状況かと想像できます。そんな無茶な仕事の進め方はまずいと思うのですが…。

本来の目的から大きく外れた要求をしてくる
 下手に漫画好きの担当さんの場合、ここにこのギャグ入れろとか、ストーリー展開とかのネタの部分に絡みたがることがあります。こっちは全体の構成を見て、目的に沿った筋立てにしているので、ネタの部分はほっといてほしい。凝ったストーリー展開などにすればそれだけページ数もかさむし、本来伝えるべきテーマもぼやけてしまうこともありますし。まあどうしてもと言われて、それで気が済むならこちらもごねるところでもないので言う通りにはしますが、構成で一旦OKが出た後にやられるのはつらい。また、ギャグの場合、企業的にやったらNGなこともあるのであまり冒険はしないにこしたことはありません。その辺は後でどうなっても知らないよってわけにも行かないので、まずかったら指摘しますけど。
 まあこの場合は言われた通りにやれば良いとも言えるので、仕事としては多少納得はいかない部分があっても、問題自体は少ないとも言えます。

 他にもいろいろありますが今回はこんなところで。個人的な好みを言えば、出版の方が気は楽なので好きではあります。企業関係の場合はやはりギャラ次第ということにはなってきます。多少の不条理はギャラで納得する場合もありますし、あまりギャラが出せないということなら手順をきっちり整えることで解決。手順が整ってスムーズに事が運ぶなら、出版とそんなに変わりない感覚で仕事をすることもできます。

過去のサンプルがご覧になりたい方、お仕事のご依頼はこちらまで。

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  1. 2012/02/14(火) 03:43:29|
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最近よく見かける著作権の譲渡契約について

 最近、著作権に関して気になる動きが有ります。この辺でちょっとまとめておいた方がいいかなあということで、覚え書き代わりの日記を書いておこうかと。一番気になるのは「著作権譲渡」問題。2012年2月現在、状況は流動的なので、今後の法改正によってはとんちんかんなことを書いていることになるかもしれませんが、その点はご容赦を。また、転載、引用はご自由になさっていただいて結構ですが、自分は法律に関してはど素人ですので、勘違いも有るかもしれません。その点はくれぐれもご注意ください。

 このところ、出版、広告で仕事をする際にとりかわす「契約書」に於いて、著作権の譲渡を求める企業が増えてきています。具体的な企業名はここでは書きませんが、デジタル化に乗じて著作権をまるごと譲渡させようとするものや、コンプライアンス重視の風潮から面倒を避けるため等、先方の意図はいろいろですが、自分が受け取った契約書はいずれも企業側にばかり都合のいいもので、全く納得できるものではなく、いずれも「使用許諾」の形に変更していただきました。出版、広告で現場仕事をなさっている担当者の場合、多くは個人的には自分の関知する問題としては考えておらず、指摘されて初めてこの契約に問題があると気づくようです。逆の立場で考えて、自分が企業側の担当者であれば、法務から回された書類は特に精査せずに下請けに送るということ自体は不思議では有りません。

 ですので多少面倒でも、著作権者側は送られてきた契約書を良く読み、疑問点が有ればきちんと対応する必要があるということです。自分の経験上、担当さんがこちらからの「使用許諾」への変更の要請をはねつけたことは有りませんでした。相手がごく常識的な判断力が有る限り、「使用許諾」で今まで通りの出版は可能なわけですから、こちらの要請を不当なものとは取らないわけで、ここで頑に拒否をする相手はかなり危険な取引先(もしくは担当者)と言えるでしょう。そうした相手と仕事をするのは勝手ですが、おそらく契約の問題以外の面でも後々問題が起きる危険性が高く、お勧めできません。契約書を読むのは確かに面倒です。ですが、ここを面倒がってよく読まず、言われるままにサインをしてしまうのは非常に危険なのです。

 また最近多いのが、登録制のサイトでのこんな規約(とあるサイトの規約からの引用を元にしていますが、当該サイトに対する抗議が目的ではないので文面は簡潔で分かりやすいように変えてあります。またどこのサイトかということもお答えできません)

ここから--------------------------------------------
弊社からの依頼で制作された作品に関する全ての著作権は、弊社に帰属します。
制作者は著作者人格権を行使しないものとします。
弊社が紛争等に巻き込まれた場合、制作者が問題を解決するものとし、弊社は一切の責任を負わないものとします。
損害が発生した場合には、制作者が全損害を賠償するものとします。
制作物に関するその他一切の権利は全て弊社に帰属するものとします。弊社からの依頼で制作された作品は、弊社が運営するサイトもしくは弊社が関わる全てのもので、制作者の了承なく利用させて頂く場合がございます。
ここまで--------------------------------------------

 著作権は著作権者が認める限り、契約を交わすことで譲渡することはできます。ですから、この規約に納得した人がこのサイトに登録することはかまいませんし、契約は契約ですから悪質とも言いきれません。ですが、契約を交わす際には、考えうる最悪のケースを想定してサインすべきとは言えます。

 仮に最悪のケースを想定してみましょう。あくまでも想定上のお話で、実例というわけでは有りません。

制作者=Aさん、譲渡先企業=B社、再譲渡先=C社
AさんはB社の依頼でその依頼内容に応じて、とあるイラストを制作し、著作権を譲渡する。
B社はその後、そのイラストをC社に売却。C社は他の出版物で再利用することにする。
C社がその出版物をイスラム圏で発売したところ、Aさんのイラストに書かれたキャラクターが宗教上の問題から抗議を受け、回収騒ぎに。
C社は1000万円以上の損害賠償請求をB社に対し起こし、B社は規約上の責任者はAさんであるということで、Aさんが賠償責任を負うことになる。

 あくまでも仮定の話ですから、こんなことが起きたときに、Aさんが本当に責任を負わなくてはならないのかということはわかりません。元々があまりに一方に都合のいい契約ですから、裁判によって取り消し請求をすることもできるかもしれません。ですが、契約をするということの重みは意識する必要が有ります。不当な契約はしなければいいだけの話とも言えますから。

 大企業だから問題は無いとか、担当者さんがいい人だからといったことは考える必要はありません。単純に契約の問題であり、大企業でも他の企業に権利を売却することはありますし、担当者は移動になってそのとき交わした口約束などはうやむやになります。そのときに有効になるのは契約書の存在です。

 先にあげたケースでは損害賠償の問題がありました。では契約上でその点に触れていない場合、譲渡契約を交わしても問題無いでしょうか?この点については著作物の種類によって、ケースバイケースと自分は考えます。例えばロゴデザインやキャラクターデザインの場合、日本の現行著作権法に従うと、改変を禁ずる著作者人格権の問題や複製権等の問題が出てきます。ここでは法律の詳細に関しては詳しく述べませんが、譲渡契約を交わさない限り、従来の慣例上の使用方法でも法律上厳密に解釈するとアウトになってしまうことがあります。

 今まではグレーゾーンとして処理されてきた問題ですが、コンプライアンス上は望ましくないことでもあります。ですので、これに関して譲渡契約を求めるのは理解できます。その際のギャラの相場は有って無いようなものですが、ロゴなら企業規模に応じて、キャラクターなら使用範囲に応じてそれなりに妥当と思える金額がいただけるのなら譲渡してもいいと思います。逆に安い値段で頼まれた場合は、譲渡はせず、使用許諾の範囲や人格権の行使の条件等をゆるく設定してもいいでしょう。

 ただ、イラストやマンガの場合はどうでしょう。これに関しては著作権侵害の可能性の問題を考えてやめた方がいい、というのが自分の意見です。個人的な見解ですが、ロゴやキャラクターの場合の著作権譲渡に関しては、譲渡後にこちらが著作権侵害を犯す危険性が少ないという点でまあ問題無いだろうと判断しています。これらに関して著作権法上、同一と見なされる制作物を再び本人が作る可能性はあまり無いと言えるからです。

 しかし、イラストやマンガの場合にどこで同一性を担保するかといえば、これもはっきりとした解釈があるとは言い切れませんが、イラストなら、タッチや構図など複数要素からの総合的判断になり、マンガだったらこれはさらにあいまいではっきり明言はできませんが、キャラクターが問題になる場合も有るし、テーマやストーリーの組み合わせが問題になるかもしれません。

 具体的に個別の裁判にならないとわからない部分(裁判官によっても解釈が変わる可能性がある)では有りますが、その点を安全第一で考慮し、著作権侵害の問題を避けるためには、イラストやキャラは意識的に使い捨てのタッチを使うとか、マンガなら譲渡した作品と同様の内容を求められる可能性のある同業他社の仕事は、二度と請けないとかいった点に気をつける必要が有ります。不可能ではないですが、あまり割に合いませんよね。

 自分の作った物に関しての著作権侵害ということに関して、ちょっとピンと来ない人もいるかもしれませんが、契約によって権利を譲渡した以上、譲渡先に著作権法上の権利が存在します。こちらはそれに対して特別な契約を交わさない限り、元の著作権者であるということで法律上の免責対象になるということは基本的には無いと思われます。裁判になった場合、上手くすれば先行性を斟酌してもらって勝てるケースもあるかもしれませんし、また人格権については本来譲渡ができない権利とされておりますから、よく見かける「著作者人格権を行使しないものとする」という文面の効力は疑わしいという説も有りますので、心配しすぎなのかもしれません。しかしこうしたことはあくまで単なる予測であり、法や契約を優先して判断されたら難しい場合も有るかもしれません。

 あやふやな危ない橋を渡る必要はそもそも無いのですから、原則的に法律や契約等の明文化された事実を前提にセーフティファーストで考えるべきことでしょう。しつこいようですが、法律は法律、契約は契約です。「そんなに大げさに考える必要は無いのでは?」などという感覚的な問題は関係ありません。また企業の規模も関係ありません。契約は当事者間で対等に交わされるべきもので、疑問点が有れば、きちんと話し合い、納得してサインすればいい。ただそれだけのことです。

 ここまで読んで「でも現実には断れない」「もう既に契約してしまった」という人もいるかもしれません。

 想定されるケースでは、新人漫画家が、連載が始まって数回目くらいに「ところで契約なんだけど,譲渡で…」と持ちかけられた場合。「譲渡」を「使用許諾」に変更してもらうということは不当な要求ではないので、臆せず交渉しましょう。普通は「使用許諾」での契約が可能なはずですが、どうしても「譲渡」にしろと言われたらどうでしょう。これに関しては難しいですけど、サインしない作戦でしょうか。契約を交わしていない状態なら、原則的に法律通りの状態ですから問題は無いとはいえます。まあ「譲渡」を強硬に求めてくる出版社など、ろくなものではないので鞍替えした方がいいとは思いますが、その辺は各自自己責任で判断するしか無いでしょう。

 ただ、これもあくまでも可能性の話でしかないですが、そのマンガのキャラクターが人気になって、キャラクターをその出版社の財産として登録されてしまったような場合、結構めんどうな問題が生じるような気もいたします。版権ものなど企画先行で、自分はあくまでただの描き手という位置づけの仕事なら、源著作権者の許諾が無い場合は自著の単行本に収録できなくなるだけで、それ以外はあまり問題無いし、そもそも譲渡契約の方が基本的な考え方であろうとはいえますが。

 また、イラストレーターで長年送られてきていた契約書をよく読まずに、気軽に譲渡契約のサインをしてしまっていたことを後から知った場合。これも難しいケースですが「その事実に関して知らなかった」と言うしか無いでしょうか。実際自分の経験では、とある大手出版社の契約書の裏に薄くて小さい字で譲渡契約に関する文面が忍ばせてあったことがあります。この出版社は一律にこうした契約書を送りつけてくるようで、自分が仲間内でその点を指摘した際、何人かの同業者がやはりうっかりサインをしてしまっていたという事実が判明したことがありました。しかし、これは契約の際に気づきにくいことと言えるでしょうから、その辺を盾にするしか無いという気がします。

 いずれにせよ、いままでの契約書を読み返して問題があると思った場合、それ以降はその出版社からの契約書は注意深く読み、仕事を請ける際には全て「使用許諾」に変更するように交渉してみることが重要です。過去の契約の取り消しは裁判などの手続きが必要でおおごとですが、そこまですることはなかなか難しいわけで、これに関しては事実を知らなかったとして対処するのが現実的かもしれません。もちろん法的にクリアになってはいませんが…。ただ、いつまでも今まで通りの契約を続けた場合、暗に認めていることになってしまうかもしれません。気づいた時点でできるだけの対処はしておいた方がいいです。その交渉をしたら自分が切られるからできない、という人はご自由に。

 ただし、法律や契約は守らねばいけないということには留意しないといけません。自分のサイトにその会社で請けた仕事の画像などを無許諾でアップしている人は、直ちに撤去するか許諾を取ってください。また同じようなタッチと構図の絵を他社の仕事では描かないようにお気をつけ下さい。クレームがつく可能性は低いにせよ、法は法,契約は契約ですから。

 また少し話が変わりますが、昨年「amazonが日本の出版社に対して著作権譲渡の契約を著作権者と取り交わすように求めた」ということが話題になりました。その際にネット上の意見として「欧米では著作権の買い取りが当たり前」という意見をちらほら見かけました。この意見のソースが自分は発見できず、真偽の程が分からないのですが、これはどう考えるべきことでしょうか?実際に自分が知らないだけで、買い取りが当たり前なのかもしれませんが、自分の感覚では個人の権利に厳しい米国でそんなわけは無いように思えます。

 んで、ここからはあくまで推測です。ヨーロッパに関しては自分はよくわかりませんが、米国の場合はなにごとにつけ、エージェントシステム(代理人制度)が発達しているということを聞きかじったことがあります。遠い昔には確かにひどい契約が有ったようですが、現状ではたとえば出版に於けるコラムニストの場合、著者はまず代理人と契約し、その代理人がマネージメントを一括して請け負い、代理人は各出版社や新聞社にそのコラムを売り込むシステムになっているようです。この場合、制作は下請けという扱いではなく、作品を代理人を通じて出版権を販売するという考え方でしょうね。

 このことを買い取りと呼んでいるのでは?という気がします。米国の場合、全国を網羅するような新聞は無いので、たくさんの取引先が有れば相当儲かるシステム。放送などの場合も似たようなシステムで、同じ内容の番組の放送権が複数の放送局に売られる。だから売れっ子コラムニストや放送関係の制作者はいったん当たれば巨万の富をえられるといわれています。著作権を最初の時点で譲渡するということであれば、そんな利益は買い取り先が独占するでしょう。また、小説なども最初に著作権を買い取られるということなら、印税が発生するということも無いので、どんなに売れても作者には利益が還元されません。アメコミのような細分化された分業システムなら、最初の制作料だけのケースもあるでしょうが。

 また、もうひとつ、昔読んだ記事の記憶なので若干記憶がおぼろげですが、これは著作権の買い取りと言っていいヒロ・ヤマガタ氏の例。ヒロ氏はあのカラフルな版画で有名ですが、あの絵に関してはヨーロッパから米国に渡る際に画商と相当な金額で契約し、数年間制作し権利を売ってしまった絵で、現在の活動とは全く関係がないそうです。この場合は「納得のいく相応の金額」「売り切っても問題無い絵柄」ということがポイントでしょう。

 逆に言えば、amazonから見た場合、各自の権利に敏感な国民性から生まれたしっかりした契約制度の有る米国に対して、日本には代理人制度が無く、また法律的には米国からするとかなり著作権者に有利でありつつあいまいな口約束でことをすませてきていて、いざきちんと契約しようとすると非常に問題の多い状況であるとも言える。amazonはその状況に応じて、出版社に著作権の管理先になるように求めたのではないかという気がいたします。amazonの契約書に関しては正式な文面を読んでいないので、推測に過ぎませんが。

 それより少し前、「講談社がデジタルデータに関して、隣接権などの譲渡を求める契約書を送った」ということが話題になったことがあります。自分は講談社とはお付き合いが無いので、その書面の実物を見たわけではなく、それに関して何とも言うことはできませんが、当時報道された出版社の言い分を聞く限り、単なるイメージですが、現在著作権者が持っている権利を出版社と折半するというように聞こえました。JASRACのように著作権の管理を委託するということなら、委託をやめることも可能ですからわかるのですが、権利を折半するということがよくわからない。おまけに送られてきた契約書は「譲渡」を求めていたらしい。この辺は情報が錯綜していろいろ混乱しているので何が真実なのかは分かりません。
(後記:その後許諾ということになっているような報道が有りました)

 いろいろ不透明なまま論をすめていますが、少なくとも権利者側は自分の権利を自覚的に守らねばいけない時代になったということは言えそうです。

 著作権法上の出版権は特別な契約を交わさない限り、最初に出版されてから3年で失効するって知ってます?多くは自動延長の契約になってはいるでしょうが、基本的には出版権の契約は出版義務も含み、契約締結後に出版を実行しないと失効します。絶版なのに出版社は何もしてくれないとか言ってないで他で出しちゃっていいんですよ。まあ単著の無い自分が言っても説得力無いけど。

 契約社会を嫌う人もいるでしょうが、世の風潮は確実にそちらに向かって動いています。著作権は若手だろうが下っ端だろうが同等に与えられた権利です。送られてきた契約書はよく読み、臆せず交渉しましょう。よほどがめついことを言うならともかく、交渉すること自体は何もやましいことではないです。先方がどうしても「譲渡」にこだわるようなら、「使用範囲」について取り決めておくとか、「その後の自分の活動に影響を及ぼすものでない」と言った一文を入れてもらうとか、「転売を認めない」とかにするとか交渉しましょう。

 以上、長々と書きましたが、言いたいことはただひとつ

「著作権は自分の財産。気軽に譲渡契約はしちゃダメ」

ということです。

追記2012/03/01
 その後、欧米の著作権についての資料が見つかりました。2011年7月11日、社団法人 日本書籍出版協会によるまとめです。「欧米では譲渡が当たり前」って書いてた人たちって、もしかしてみんなこれ読んで発言してたのかな?

http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/kondankaitou/denshishoseki/10/pdf/shiryo_4_1.pdf

 リンクが切れてしまう可能性もあるので気になった点を引用(改行位置は読みやすく改変)いたします。

>• 契約の基本は、出版者に対する著作権の実質的な譲渡契約。

 冒頭にこう記述されているのですが、

>• 出版物利用による収益は、出版者から著作権者に配分される。

 あれ?著作権の譲渡を行ったら、「著作権者」は源著作権者じゃ無くて移譲先では?と思って読み進めていくと、、、。

一例として米国の場合を引用。
>ここから
著作者は、出版社に対して、あらゆるフォーマット、あらゆる言語によって当該著作物を複製し頒布する権利、及び第三者にそれを許諾する権利を、現在及び将来の法律における著作権保護期間および更新期間のすべてにわたり、譲渡(grant)する。
また、著作者は出版者に対して、当該著作物の宣伝、販促に関する独占権を認める。この権利は、著作物の印刷、出版、ライセンス、販売に限定されない。
著作者が書面によって、当該出版物の増刷を求めたとき、出版者は、一年のうちに増刷を行うか、すべての権利を著作者に返還するかを、書面受領後90日以内に決定する。
>ここまで

 このように欧米各国に対する聞き取り調査の結果が記述されています。それを読む限り「出版権」と、それに関係する権利の譲渡(委託)のようです。なので、出版権を譲渡された出版者は、著作権者に収益を分配する(しない場合も有るかもだけど)し、絶版時等、不満が有れば源著作者の働きかけによって、「出版権」を取り消したりできると。

 この辺は個人主義で交渉によって権利を守るという民族性を元にした、ざっくり決めて後は個別交渉でという法概念の国と、生真面目でケースごとに細かく規定を作っていく日本とでは、根本的な部分で考え方の違いも有るかもしれません。欧米流からすると日本の著作権法は厳しすぎて、かなり難しいと言うことは前述しましたが。

 しかし、この報告書まとめた人、なぜ「著作権の譲渡」って冒頭に書いちゃったんだろう?著作権と言うことばは向こうだとCopyrightであるとか、出版由来の権利ってことでざっくり書いちゃったのかな?だいたい「grant」って「承諾」とか「認める」じゃなかった?「譲渡」はたぶん「transfer」とか、「give」じゃないかなあ?それとも自分の解釈の方が間違ってる?

  1. 2012/02/12(日) 23:30:59|
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